司法事故そして司法崩壊
ー「すでに起こった未来」に備えるー
す でに起こり、後戻りのないことであって、10年後、20年後に影響をもたらすことについて知ることには、大いに意味がある。しかも、そのような既に起こっ た未来を明らかにし、備えることは可能である」(上田惇生訳『P.F.ドラッカー経営論集-すでに始まった21世紀』ダイヤモンド社,1998,5頁)
検察という病=自分は決して間違いをしない正義の神だと思っている=決して反省しない=どんな大失敗をしてもそれを認めない=全く進歩がない=同じ大失敗を繰り返す“ その検察を支えているのがメディアであり、裁判所です。
はじめに:裁判に科学はありません.裁判は信仰です.
現実世界に対する威力の点では,科学や医療よりも信仰の方がはるかに上です.検察側の麻酔科教授が筋弛緩剤中毒である,弁護側の麻酔科教授が 筋弛緩剤中毒ではない.そうやって主張が真っ向から対立する時に,筋弛緩剤のきの字も知らない裁判官に,「筋弛緩剤中毒に決まってるじゃない か,これが筋弛緩剤中毒でないと言う奴は頭が狂ってる」という判決文を書かせる力は,信仰以外の何物でもありません.
地動説にせよ,進化論にせよ,今でもほんのごく一部の連中の研究費稼ぎのネタにしかなりません.天動説を一生信じて,全ての生き物は神が 作ったと一生信じて生きていた方が.ずっと幸せになれます.
医療崩壊の愚を繰り返さないために
かつて医師は神であると信じていた人達が医療事故を認めなかったように、警察官・科捜研・科警研、検察官、裁判官を神として信仰する人々には 司法事故が見えません。警察官、検察官、裁判官に対する無謬性信仰、情報の非対称性、専門性の壁、閉鎖性といった問題点が放置されている点 で、司法界は五十年以上前の医療界とそっくりです。「To err is human過つは人の常」という金言は、司法界では未だ通用しませんが、医療過誤・医療事故の何たるかをご存じの方ならば、司法過誤・司法事故という概念 も、それらが生じる背景も、容易に理解していただけるでしょう。 ⇒ 続きを読む
P.F.ドラッカー経営論 [ ピーター・ファーディナンド・ドラッカー ]